『復讐の標的』
        第二章 小向美菜子        

第二章 小向美菜子

2.
 原宿でショッピングを楽しんだ美菜子は電車を乗り継ぎ、自宅の最寄りの駅まで戻ってきた。
 美菜子の家は駅から少し離れた住宅街の中にある。歩くと十五分ほどかかるが苦になる距離ではない。
 改札を出るとやや速い足取りで商店街の中を通り抜けていく。ちょうど夕食の買い出しらしい主婦で賑わっていたが、気づかれる事もなく雑踏の中をすり抜けていく美菜子。
 そういえばゆうこさん大丈夫なのかな。
 家路を歩きながら美菜子は同じ事務所の黒沢ゆうこの事を思い出した。
 三歳年上のゆうこは美菜子にとって、事務所の良き先輩であり、頼れるお姉さんであり一番の仲良しだった。
 たまに食事に誘われる他は会うのはもっぱら事務所だが、ゆうこも仕事があるので週に一、二回くらいしかない。それでも一週間も会わなければ携帯に連絡を入れてくれた。坂本から体調が優れないので入院したという話は聞いていたが、お見舞いに行こうと病院を聞いてもはっきり答えてくれないし、最後に会った時の様子からすると電話も出来ないほど容態が悪いとは考えにくい。
 もう会わなくなって二週間近くになる。よく考えてみると社長やゆうこのマネージャーを始め、スタッフにどことなく元気がない気がする。
 何かあったのかな.....。
 そんな事を考えながら歩いているうち、ふと気づくと家の前まで来ていた。
 明日事務所に行ったら思い切って聞いてみよう。
 と、その時ワゴン車が走ってきて美菜子の目の前で急停車した。
 「すみません、小向美菜子さんですね」
 後部座席から出てきたオールバックの男が美菜子に尋ねた。
 「あ、はい」
 「わたし、お父さんの会社のものですが、お父さんが交通事故に遭われて病院に担ぎ込まれたんです」
 「ええっ!」
 青天の霹靂であった。家を出る時普通に新聞を読んでいた父の姿が脳裏をよぎった。
 「い、いつの話なんですか、容態は?」
 「詳しい事は私もまだ.....。家族の方もみなさん病院に向かっています、さあ、急いで」
 男はせかすように美菜子の背中を押す。
 父親が交通事故にあったのなら、病院に向かう前に母親から美菜子の携帯に連絡があるはずだし、容態が全く分からないと言うのもおかしい。その事に美菜子は気づくべきであった。しかし突然のことで気が動転してしまい、疑うことをすっかり忘れていた。
 何が何だか分からず車に押し込まれる美菜子。すると中にもう一人男が座っていた。爬虫類のような鋭い目つきをしたパンチパーマの男、松本だった。
 イヤな胸騒ぎを覚えた瞬間
 「う、うぐぅっ...」
 後ろから口を塞がれ呻く美菜子。口に当てられたハンカチから揮発性の匂いを吸い込まされ、ようやく騙された事を悟った。しかし意識が徐々に遠のいていく。
 オールバックの男の腕の中でもがいていた美菜子は、やがて意識を失いグッタリと動かなくなった。
 「よし、やってくれ」
 無機質な松本の声と共に、サングラスがギアを入れ車が動き出す。グレーのワゴン車は静かなエンジン音をたててあっという間に走り去っていった。

 

 若者たちを中心に、常に多くの人々が行き来する渋谷の街。芸能プロダクション・ティップは、その外れにある小さいながらもまだ真新しい五階建てのビルの最上階にテナントを構えていた。まだ創立二年の浅い歴史ながらも、二十名を越えるモデルやタレントを擁し、業界の中でもその存在は頭角を現しつつあった。
 その代表取締役、近江明は事務所で一人深々と椅子に腰掛け、ボンヤリと宙を見つていた。その顔には生気がなく、ひっきりなしに溜め息を吐いている。
 と、入り口の扉が開き、紺の背広に身を包んだ男が入ってきた。
 「あっ、これは松井刑事。お待ちしていました」
 近江は飛び起きるように慌てて椅子から立ち上がると、刑事を応接へ通した。
 突然姿を消した所属タレント、黒沢ゆうこの捜索願を出してからほぼ2週間が経過していた。そして今日近江に昼過ぎに担当の刑事、松井から経過説明に来たいとの電話があったのだ。
 「どうですか、その後何か手がかりは」
 席に座るやいなや近江は尋ねた。
 「いえ、申し訳ないのですが全く.....」
 松井はお手上げと言わんばかりに首を振り、肩をすくめた。
 「そうですか」
 「こちらにも何の連絡もないのですか」
 松井の問いかけに無言で首を横に振る近江。
 「先ほどご両親にも確認を取りましたが、あちらにも何も連絡はないそうです。失礼、宜しいですか」
 松井は二本指を口に当てタバコを吸う仕草をして見せた。頷く近江。
 「今、失踪、事故、事件の三つの可能性で捜査しています。今のところ事故の線は薄いようです。事故ならすぐにこちらにも情報が入りますからね」
 タバコを取り出すと火をつけ、続ける松井。
 「となると後は失踪か、何らかの事件に巻き込まれたのか.....」
 「刑事さん。黒沢ゆうこに失踪する理由など考えられません」
 近江はキッパリと言いきった。
 「我々も失踪と断定したわけではありません。しかし事件、例えば誘拐などであれば犯人から何らかの要求があってもいいはずです。もういなくなって二週間も経っているんですから」
 「あっ、まさか彼女自身が目的とか」
 近江はハッと気づき松井に尋ねた。それなら要求がないのも頷ける。
 「うーん...。まあ考えられなくはありませんが、目撃者も含めて今のところめぼしい情報が全くないのです。正直お手上げの状態ですよ」
 煙を吐きながら松井は言った。
 「ご両親にも話をしたのですが、公開捜査に踏み切られた方がいいのでは」
 つまり新聞やテレビのニュースでゆうこが行方不明になった事を報道して、情報を募ると言う事である。幅広く情報を集められるので早期解決に繋がる事も多い反面、誘拐などでは却って人質に危険が及ぶ事もある。
 「も、もう少し待ってください。ご両親には私から話をしますので」
 有効な情報がないに等しい現状では、警察として当然選択したいオプションである事は理解できる。しかしそうなるとマスコミにスキャンダラスに騒がれ、ゆうこ本人はもとより事務所も大変なイメージダウンになる。それを避けるため表向きは過労で入院と言う事になっていた。事務所の中でも知っているのは少数のスタッフのみで、モデルやタレントたちには事実は伏せられていた。
 「それでは、私はこれで。また何か分かったら連絡します」
 「それではよろしくお願いします」
 刑事を乗せたエレベーターの扉が閉じていく。深々と頭を下げ、それを見送る近江。
 部屋に戻って時計を見やる。八時を少し回ったところであった。
 これじゃどうしようもないな。今日の所は失礼するか。
 穴を開ける事の出来ないゆうこが司会を務めていたBSの仕事は、代役に葛西リエを立てて凌いでいるが、リエ自身の仕事もあり、スケジュールの調整が必要だった。また、キャンセルした雑誌のグラビアページの仕事については、違約金を要求している出版社もあり、どうするか頭が痛かった。しかしそれを考えるにはあまりにも疲労していた。
 「社長、大変です!」
 とその時、マネージャーの坂本が飛び込んできた。
 「何事だ、そんなに慌てふためいて」
 まさか、ゆうこの身に何か、イヤな予感が近江を襲う。
 「み、美菜子ちゃんが戻らないんです!」
 「何だって!」
 思いもしなかった事態である。近江は後頭部をハンマーで殴られた気がした。
 「グラビアの撮影が昼過ぎに終わってから、美菜子ちゃんを原宿で下ろしたんですが、まだ戻っていないんです」
 「こんな時に何でそんなところで、家まで送っていかなかったのか」
 近江は目の前が真っ暗になった気がした。美菜子が失踪となればその影響はゆうこより格段に大きい。
 「済みません。買い物をしたいと言うんで。日が暮れる前には帰るようにしつこいくらい言ったんですが、気になって今自宅にかけてみたら.....」
 「明日の美菜子のスケジュールは」
 「はい、午前中は社内で新しいイメージビデオの打ち合わせ、それから雑誌社が来てインタビューが二つ....」
 「すぐに連絡を取って、インタビューを延期して貰ってくれ、取りあえず急病でな」
 「え、し、しかし、今日は日曜だし、この時間では...」
 坂本は言いかけたが、返事を聞く前に近江は受話器を取ると電話をかけていた。
 「あ、もしもし、松井刑事ですか。私ティップの近江です。先ほどは....実はまた大変な事になりまして、すぐお戻りいただけないでしょうか。ええ...はい」
 切羽詰まった様子で話をする近江を横目に見ながら、坂本は仕方なく出版社の電話番号をプッシュする。
 しかしいくら待っても誰も電話に出る事はなく、呼び出し音が無情に鳴り続けるだけだった。

 


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